悲しき智慧

突然だが、皆様は「知る」ということが好きだろうか。

好きな人もいると思う。

「知的好奇心」という言葉もあるくらいだし。

突然だが、ここで芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節を引用してみる。

 「まだ幼稚園にゐるうちに智慧の 悲しみを知ることには責任を持つことにも當らないからね。 」

ここでいう「智慧(ちえ)」は「知恵」だと解釈していいだろう。

うまく掴めない人もいるかもしれない。

蓋し、この箇所のニュアンスはかなり本質的なところを突いていると思う。

〝知る〟ということは、何かについて〝分かる〟ということだ。

〝分かる〟は〝分〟とあるとおり、現象を細かく〝分割〟することとほぼ同じだ。

つまりは現実の解像度が上がるのである。

賢人は現象に対する、高画質カメラを備えているのである。

現実の解像度が上がることは素朴に考えると喜ばしいことのようにも思える。

だがよくよく考えると、現実をミクロに知ったところで、一個人として人間ができることは非常に限られている。

そんなやりきれない無力感に苛まれることはあるだろう。

透けるように現象の本質を見抜くということそれ自体が辛苦の始まりなのかもしれない。

知はプラスに働くことも多いが、たまさか、知の先には無力感が待っている。

「知ってしまったがどうすることもできない」という憐憫の行き場は時にどこにもない。

別に、ペシミストでなくても難題に対峙して行き詰まる辛苦あるはずだ。

故に、知的に遥か先に飛んでしまった人は、結構、重圧的な内なる戦闘をしていることがある。

〝知らぬが仏〟とはまさに知識についても言えるのかもしれない。

真理を掴む者は差異に苦しむ宿命があるのだろうか。

そんなことを考えさせられた一節である。

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