汽車としての自己

1.即時的な瞬間としての自己は、「連続的に運動する箱」のようなものである。

2.連続性からの抽出、離散化、忘却は、〝瞬間〟に追随かつ漸近しながら(意識的であれ無意識的であれ)行われる。


無味乾燥と突き進んでいく汽車(主体)があり、ある要素は車窓から飛散し、またある要素は抽出され特定の部屋に振り分けられる。

3.汽車が前へ運動するに際して〝Cogito〟は〝元・Cogito〟として鏡像段階的に対象化する。経過に伴い、場所法的に他者的な観測対象になりうる。

4.汽車が止まれば、中の全要素は死滅する。これが一般に言われる「」のことである。

主体から抽出され、出力された要素は、もしミームとして伝達されれば生きていく。

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