東京という「郷」の見えない拘束力

突然だが、「郷に入っては郷に従え」という言葉を聞いたことがあると思う。

意味は「その国では、その国のルールに従え」のようなニュアンスである。

東京のそれはとても高い基準だと思う。

皆は住み慣れていて、特に困ってもいないだろうが、実はかなり仕組み化されている。

都心の歩道はガードレールで強固に閉鎖され、横断歩道以外のところで簡単に道路を跨(また)げないようになっている。

空き地にも何かしらの貼り紙が貼られ、基本は入っていけない。街の全てが、何らかの管理下にある。

こうした背景には、

「規律訓練権力」という、規律を人々に無意識的に内面化させることで、適切な行動や振る舞いの人間を作り出す構造が仕組まれている。

(cf:ミシェル・フーコーのパノプティコン)

街を、街のアナウンス通りに歩く。これはとても当たり前のことだが、日本のソレは特に顕著らしい。 まあ、小さい頃から、体育の授業のときから整列整列と口酸っぱく言われている国民なので、特段ストレスでもないと思う。

それでも、東京というのは、特に人目を気にしないといけないクニらしく、治安が良いところやタワマン付近などは尚更のことだ。

この間、某住みやすい街に住んでいる知人は、道端でスケボーをしていたら、街のおじさんに大変な叱責を受けたそうだ。 「いや、街をわきまたほうがいいでしょ」 で済ませてもいい話だが、逆に考えたら、それすら難しいような世の中になってしまったようだ。

数十年前の日本は適当な空き地に入って野球をしたりするのが普通の世の中だったと聞く。

どうも、高水準には「閉塞感」がついて回るようだ。

例えば子供を産んだら、街の秩序に反しないように、24h管理しないといけない。それは少子化にもなる(原因は多面にあるが)

そう暗い未来ばかり見据えているわけでもないが、増えすぎた人間は、逆説的な未来を作ろうとしつつあるのではなかろうか。

東京という郷の夜に佇みながら、ふと考えていた。

fin.

スポンサーリンク
スポンサーリンク
ad
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク
ad
スポンサーリンク